記憶。あるいは記録。
世界5分前仮説を考えると、記憶や記録こそが非常に重要だ。世界5分前仮説は世界が5分前に創造されたとして、それ以前の記憶も含めて作られたのならこの仮説を否定することはできないとした。しかし、なぜ、5分前なのだろう。いや、分かりやすさのためにそうしていることは分かった上で実情は世界“一瞬前“仮説の可能性もあるのではないか、と考えたい。
そして、これは現実の話だった。
世界は一瞬前に出来ていて、一瞬後は存在しない。そもそも時間などという概念がこの世界には存在しておらず、その認識は人間が生み出した虚構に過ぎない。全ての事象は“今“起きている。無数に存在しているどれもが特別ではない。
どういうことかと言えば、まず大前提として、今この瞬間はあなたにとって特別だ。なぜならそれ以前は過去で、それ以降は未来であるように、今この瞬間だけが他の時間とは明確に異なる瞬間だからだ。では、それは何故だろう。なぜ、この今だけが今で、一瞬後は今ではないのだろう。一瞬後が今になる頃、今であった特異点は過去となる。それは例えば“わたし“だけが“わたし“であって、あなたが“わたし“でないのと同じだ。あなたにとってはあなたが“わたし“であるのだが、やはり“わたし“は“わたし“にとって特別だ。
敢えてその特別さに目を瞑り、全てを平等に並べてみる。例えば、ここに10人の人がいて、その誰もが“わたし“ではない。しかし、この仮定にも穴があり、並べた10人を見ている“わたし“がいる。あらゆる瞬間で人間は“わたし“という特別を無視できない。同様に“今この瞬間“も、だ。そして、それが特別なのは人間の主観が原因になっていると説明したくなるだろう。
すなわち、人間の主観こそが“今“や“わたし“の原因であって、そんなものが介在しないと仮定するなら時間も他者も存在しない。そして、(人によっては恐ろしいことに)どうやら人間以外の全てのものにはこの主観がなく、すなわち、時間の概念がない。自己と他者に関してはもう少し込み入った話が存在するが、一旦、上述したような特別な“わたし“に関しても存在しないと言い切ってしまおう。
私達が見ているものは全て虚構だった。だから、客観的な(これも既に人間的な思考だ)記録やその物体に根付いた記憶というものは実に純粋にこの世界での実存性を感じられる。
次に考えるべきはこの”特別”が人間にのみ適用されるのかという点にある。
もちろん全ての世界は虚構であり、ある個人の妄想であると断じるのは簡単だが、ここでは敢えて世界が存在するとしよう。というよりも、私は実際に存在する世界を見てしまった。世界が一つのオブジェクト、神と呼ぶべきそれの胎内にあることを私は知ってしまったが故にその事実を受け入れる他になかった。
だからこそ、記憶というよりも記録というべきだろう。石ころ一つにもそこに至る過程がある、と人間は考える。しかし、実際にはその過程も含めてその石ころであるという事実だけが世界に存在する。”そうではない石ころ”もまた同時に存在している。これに量子力学的な揺らぎを想起するものもいるかもしれないが、それは違う。寧ろシュレディンガーの猫の例えのように、どちらか一方でしかないと理解すべきだ。より厳密には死んだ猫も生きた猫も存在するが、我々が確認する猫はやはりどちらかでしかない。観測の結果としてどちらか一方が選択されるというよりも、選択することが観測なのだと理解できる。
つまり、物質には特別性がなく、特別性を見出すのは常に人間の主観だ。